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日本語が亡びるとき

水村 美苗
筑摩書房
売り上げランキング: 2
おすすめ度の平均: 3.5
3 知的エリート層の方に勧めます
5 ある稀有な経験を持つ女性がたどり着いた境地とは
2 知っていることだけを語るのが良い.


梅田望夫、小飼弾 両氏が、必読と推薦する本書。
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20081107
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51136258.html

現在(08/11/12)その他のブログ上でも、熱く話題になっている書籍である。

「納税に匹敵する義務」というアジに乗せられたというか…。
プロの物書きではないが、日本人として、読書人として、
やはり読んでおかねばならないだろうと思ったのだ。

一応、通読した。色々、思うところはあった。
しかし、咀嚼し切れていない部分も多い。
多分、そのうち、もう一度読み直す必要があるだろう。

主張に関しても、共感できる部分もあるし、できない部分もあった。

第一章、まるで小説か随筆のような書き出しで始まり、
情景描写や具体的な出来事、感じたことなどについて綴られていく。
やがて、だんだんと著者の思索に比重が移っていき、
さらには、世界的、歴史的、抽象的な論考へとつながっていく。
  • 国語とは何か
  • テキストとテキストブック
  • 話し言葉と書き言葉
等に関する、鋭い考察には、刮目させられた。
そういう意味では、知的な刺激と言うべき一冊だった。

また、日本語の表現、近代日本文学に対して
愛おしく思う気持ちは痛いほど伝わってきた。

ただ、正直、文学史観がらみの部分については、肯定も否定もできるほど、知識がない。
あぁ、なるほどと思うばかりである。

また、本書を読んだ上でも、個人的には日本語の未来について、憂えてはいない。
憂えたところで、なるようになるであろうし、
それをいかに国策であろうが、教育制度であろうが、何とかしようとしたところで、
10年か20年がところ、変化が遅れるに過ぎないと思うのだ。

おそらくは、「かくあれかし」と信じる日本語の姿が明確な人ほど、
日本語の将来を憂えているであろうし、同様に、今の日本語にも不満なはずである。
著者の憧憬する日本語の姿も、既に過去の日本語のように思える。

そういえば、今のケイタイ小説などについては、著者はどう思っているのだろうか?
万が一機会があるならば、聞いてみたい気もする。
私自身はといえば、判断を保留している。今のところ、読んで「素敵」と思えるわけではない。
さりとて、馬鹿馬鹿しいと切り捨てるには、引っかかるモノを感じるからである。

もちろん、(書中での意味で)国語としての日本語に危機を感じる人たちはいるに違いないし、
それを守るために戦うも、もの申すも自由である。

ついでに言えば、国語としての日本語の未来についても、著者のようには憂えていない。
論文を書くのであればともかく、小説を書くに最も適するのは、やはり「母語」だと思うからだ。
著者のいうところの「テキスト」そのものが持つ、手触りのような翻訳不可能性をはらむ表現は
やはり、そのための読みこなし、書きこなしの絶対的な量を必要とする。
日常会話や新聞、TVなどが、日本語よりも英語というレベルにならない限りは、
表現手段としての日本語は、日本人にとって一番うまく使える道具であり続けると思うのだ。
小説も「誰」に「何」を伝えたいかが、最も重要だと思う故。
まぁ、これは、日本語モノリンガルとしての自分の感覚でしかない。
本当のバイリンガルがどう感じるかは、そうなってみないとわかるまい。

一方、思索に関しては、マルチリンガルは有利なのではないかと思う。
最終的に、どの語で記述するかは別として、一つのことに対して多面的な
見方ができるようになるはずだからである。
(これは、プログラマの多言語論と似ているのではないかと思う。)
既にこの本の中で書かれているように、英語が母語であるモノリンガルの人は、
出発時点で決定的に有利だが、それが故に盲点を生じることもあると思う。


さて、ここから英語のお話。
こちらは、江島さんの感想。
http://japan.cnet.com/blog/kenn/2008/11/10/entry_27017805/

私の英語は、読み(ほんの少し)、書き ×、話す × という、レベル。
英語が堪能でなくても逃げ切れる、ぎりぎりの世代に属していると思う。
しかし、それでも英語ができないことに対するコンプレックスは大きい。
…とか、英語について書こうかと思ったのだけど、やーめた。


081119_20_47

「テキストブック」 x 「テキスト」について、敢えて、誤読してみよう。
このふたつの違いは、もちろん本の(内容の)側にもあるが、一方で読み手の側にもあるとおもう。
つまり、役に立てたいと思って読むか?楽しみ、あるいは純粋な知的刺激のために読むか?という違いだ。

つまり、医学生が医学書を読むのは、「テキストブック」を読むことに違いないが、
同じ医学書でも、まったくその道とは関係ない人が、自分の病気について知りたいとか、そういう意図をもたずに、
たんなる興味だけで、この本を読むとしたらそれは、一種の「テキスト」になるのではないかという意味。

そこまで拡大解釈しても、最近、「テキストブック」しか読んでないな。
例えば、技術書だったり、実用書だったり、自己啓発本だったり?
ついでに、流し読みであることが多い。

それに比べると、大学の頃って自由な時間が山ほどあったので、
読書の仕方も贅沢だったなと思う。

例えば、澁澤の本を一冊読んだとしよう。かれの評論は、内容的には
テキストブックなのだが、その指向する世界は、むしろテキストへの憧れ
であり、また憧れをかき立てるものだった。
一冊読めば、そこには数十冊以上の著作や数十人以上の歴史上の人物が
とりあげられている。
そこに紹介されている本を読む。出てきた名前の著書を探して読む。
画集を探してきてみる。展示会があればいってみる。
そういったことが楽しくてたまらなかった。

既に、故人だったが、彼の友人には未だ現役の人たちもいて、また、
同時代人たちとの微妙なかかわりやネットワーク、世相みたいなものも
うかがわれ、自分たちにもこういうサロンみたいなものが作れるといいな
と思ったものだ。

今は、といえば 吉本隆明の「言語にとって美とは何か」を読んでいる。
かなり昔に買って、パラパラとめくってはみたが、
本棚に積まれたままになっていた本である。
なぜかといえば、一言で言えば難しくてしんどいと感じたからだ。

実のところ、主張そのものは、それほど難しいわけではない。
ただ、そこに引用されているテキストブックならざる「テキスト」や、
概念を説明するための言い回しを追っていくと、
自分の知識の足りなさや、経験の足りなさを嫌というほど痛感させられるのだ。
だから、しんどい。
それでも、今をおいて他に読むときはないだろうと、
「日本語が亡びるとき」を読んでおもったのだ。

関係はないが、小飼弾 氏は、敬意を表しつつも、吉本隆明は「だいっ嫌い」らしい。

なんだか、だんだん文体が崩れて、
いつもの調子になってきたみたいだ。w











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